最近、疲れ気味の生徒たちに高橋代表から喝が入りました。朝の挨拶、講師やテューターへの態度、授業中の姿勢など初心に帰り自分に厳しくなれとの訓示でした。自分の置かれた立場と環境に感謝して、将来は医師になるんだという志を忘れないでほしいです。
さて、テュートリアルですが、今日は日本最大の医療グループである徳洲会を一代で築き上げた徳田虎雄先生の半生を描いたドキュメンタリー動画を鑑賞しました。
徳田虎雄先生は、1938年兵庫県生まれ、幼い頃に両親の故郷である鹿児島県徳之島に移り住み、高校卒業まで徳之島で育てられます。9歳の時、弟が急病で高熱と激しい嘔吐に苦しむも、医療を受けることができず亡くなってしまうという衝撃的な経験をします。それがきっかけで医師になることを志し、2年の浪人の末、大阪大学医学部に入学します。彼は35歳の時、大阪府松原市に「徳田病院」を開設します。この時、「返せなければ自殺して保険金によって返す」と銀行を説得して融資を受けたといいます。そして2年後には医療法人徳洲会を設立し、ここに日本最大の医療グループが誕生したわけです。徳田先生は、「24時間365日患者を受け入れる」、「患者からの贈り物は一切受け取らない」、「差額ベッドの廃止」という当時としては異例の方針を掲げ、日本の医療界に大きな影響を与えました。そして「生命だけは平等だ」をスローガンに、医師会の激しい抵抗にも負けず全国各地に病院や診療所を開設していきました。
徳洲会の全国展開を進める一方で、医療制度を改革するには政治の力が必要だという結論に至り、1983年と1986年に衆議院議員選挙に鹿児島県奄美群島選挙区から立候補し、自民党の後ろ盾のある安岡興治と壮絶な選挙戦を繰り広げるも2期連続で落選。しかし、1990年、3度目の立候補をすると、安岡陣営から寝返った選挙対策委員長の情報から巨額の選挙資金を集め、初当選。政治家徳田虎雄として医療改革に臨みます。徳田先生は、「総理大臣になり、日本を変える、そしてその後は世界を変える」と息巻いていましたが、総理大臣はおろか大臣にもなれず、思うように政治力を活用できない時代が続きます。そんな中、徳田先生は体調の変化に気づきます。極度の倦怠感と四肢の痺れ、検査の結果、筋萎縮症側索硬化症(ALS)の診断が下ります。病床に臥しながらも徳洲会の運営に意欲的に取り組み、ますます徳洲会は勢力を拡大していきますが、息子で衆議院議員の徳田毅さんの公職選挙法違反が元で、理事長職を辞し、公の場から去ることになります。ALSの症状は悪化し、現在では体を動かすことも、話すこともできない状態のようです。こうやって、世界を変えようとした徳田先生の野望は打ち砕かれてしまうわけですが、これまでの功績は十分に日本の医療に影響を与えました。国民皆保険制度を機能させるためには全国どこにでも受診可能な医療機関がなければいけません。徳田先生の故郷である奄美群島には、小さな島でもCTスキャン、MRIといった高度な医療機器を備えた病院があります。また、日本全国の救急搬送の40回に1回は徳洲会病院で受け入れています。さらに、世界で最も厳しいとされる医療施設評価機構であるJCI(Joint Commission International)認証を徳洲会11施設が受ける(全国で認証されているのは26施設)など、徳田先生の「命だけは平等だ」のスローガンは今でも生き続け、大都会であっても離島や僻地であっても医療機関を受診できる場所が増えているのです。
医師として、政治家として、評価の分かれる人物ではありますが、日本の医療に大きなプラスの影響を与えたことは事実です。昔、中国に「上医医国、中医医民、下医医病」という言葉が表されたそうです。今でも、「小医は病を癒やし、中医は人を癒やし、大医は国を癒す」と少し表現を変えて残っています。まさしく、医療を突き詰めていくには国を癒やさなければならないのでしょう。現在日本には国会議員として10人を超える医師が「国を癒す」ために働いておられるのだと思います。医学部を目指す若い人たちの中にも高い志を持って臨んでいる人がいると期待しています。